ぴちゃり ぴちゃり
深夜、人気の無い建物の中で、水音が響く。
音というものが死滅したかのような静寂の中、その水音は殊更大きく響き渡る。
ぴちゃり ぴちゃり
もし此処にヒトが居れば、その場に漂う異臭に気が付いただろう。
此処には、何処かで嗅いだことのあるような、鼻につく臭いが充満していた。
ぴちゃり ぴちゃり
此処には光を発するものは無く、窓から入るはずの月明かりも、雲に遮られたおかげで地上まで届く事は無い。
此処にはただ、どこまでも堕ちていってしまいそうな、暗い、暗い闇が鎮座していた。
ぴちゃり ぴちゃり
そんな光射さぬ闇の中に、二つの小さな光があった。いや、それを果たして光と呼んでもいいものか。
床より1mの高さに並んだソレの色は、朱。
リンゴのような赤ではなく、夕日のような紅でもなく、まるで血を何十倍にも濃くし、圧縮したかのような禍々しい、朱。
暗闇の中でそんな朱が二つ、音も無く浮かんでいる様は、どこか怪談じみていた。
ぴちゃり ぴちゃり
水音が、響く。闇に包まれ視界がきかない状況下では、それを補うために他の感覚が鋭敏になる。
故に、ここに入ったヒトは気付くだろう。この闇の中、ナニカが存在しているという事に。
あるいは、そんな感覚など無くても気付いたかもしれない。それだけその存在は異常で異質で異外だった。
ぴちゃり ぴちゃり
水音が、止んだ。それと同時に、此処にあった闇が光によって剥がされる。
窓から差し込んだその光は、雲の切れ間より覗いた月の光だった。柔らかな月の光が、此処に鎮座する闇を侵していく。
月の光に照らされたその場所に在ったのは、二つの影だった。片方は床に仰向けに寝転がり、もう片方はそのそばに座り込んでいる。
床に寝転がっているのは、何かの制服らしく衣服を纏った女性だった。年は若く、まだ少女といっていいだろう。
可愛いといえる程度には整った顔は、しかし血の気がひいて真っ青になっている。
少女の四肢は力なく床に投げ出されており、その胸元は真っ赤に染まっていた。
大きく見開かれた両の瞳は焦点が合っておらず、その口元から空気が吸い込まれる事もない。
少女は、完全に事切れていた。
そして、少女の亡骸の傍らに佇むもう一つの影。月の光によって照らされたその姿は、一見すると華奢な少年のように思えた。
“彼”の姿を見たものは、誰もが一瞬息を呑むだろう。それほどまでに、“彼”は美しかった。
プロポーション
人間の理想の形とも言える、完璧な均整のとれた肉体。天使の織った糸で紡がれたかのような、腰まで届く長い蒼髪。
繊細さと同時に荒々しさすら感じさせる、神の雛形とも呼ぶべき美貌。
全てにおいてヒトを超越していた。
しかし、“彼”の持つ2つの朱が、その美貌に恐怖を感じさせる要因となっていた。
一つは、その瞳。先の闇の中でも光り続けていたその瞳の色は、朱。その禍々しき朱色は、神の如き美貌を魔王のそれへと変えていた。
もう一つは、その口元にあった。美しく整ったその唇は、紅を塗ったかのように朱かった。
しかし、その唇を朱く染めるのは紅などではなく、人の生命の欠片とでもいうべき赤い液体だった。
“彼”が朱い唇を舐める。そして味を確かめるように二度、三度と舌の上で転がし、嚥下する。
血の味を楽しむその姿は、物語にて語られる吸血鬼を連想させる。あるいは、人肉を喰らう獣を。
―――と、“彼”の体が小刻みに震え始めた。
窓から見える月を仰ぐように頤を上げ、おこりのようにその身を震わせ続ける。
“彼”は一体どうしたのだろうか。その疑問は、“彼”の美しく整った顔が作り出す、その表情を見れば一目で解けるだろう。
その顔に浮かぶのは、笑み―――。
“彼”は月を見上げ、肩を震わせながら笑っていた。その笑みは無垢で無邪気で無畏であり、同時に無愧で無慈悲で無為でもあった。
そんな美しくも禍々しい浮かべながら、“彼”はその身を震わせる。無常の喜びを謳うように。世の全てを嘲るように。
美しき獣は一人、身体を震わせ笑い続ける。その様を、ただ月だけが照らしていた―――。